【DEATH STRANDING】 クリアしたので感想とレビュー

先日ようやく「デス・ストランディング」ストーリークリアしました。

謎が謎を呼ぶストーリーと美しいグラフィック、独りだけど「誰か」と繋がるシステム。
語彙と涙腺が崩壊してしまい「どうやってレビュー書こう?」と思ってしまいました。

小島秀夫と言う男は今の時代にこういうことを「ゲーム」として
伝えたかったのかな?なんて思いつつ、なるべくネタバレを避けて
「DEATH STRANDING」の感想、レビューをしていきたいと思います。

 

ネタバレをすごく気にされる方はブラウザバックをお願いします。

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「DEATH STRANDING」は神ゲーだった!

神ゲーの基準は人それぞれだと思いますが、ゲームとしてのエンタメ性、
アートやメッセージ性、
あらゆる角度で素晴らしい作品でした。

本当に素敵なゲームをこの世に産み出してくれて
最大限のありがとうを。

もちろんまだまだ「DEATH STRANDING」の世界を楽しみますが
自分の出したこのゲームの結論は神ゲーでした。

神ゲーだと考えたのは単純に面白い、爽快感、操作性がどうこうとか
ある意味「今の時代には当たり前」と言う基準ではなく
斬新で革新的、かつプレイして何か胸にくるものがあったからと言う意味です。

「DEATH STRANDING」は確実にゲームの存在意義を変えました。

独りだけど孤独は一切感じない

「DEATH STRANDING」は他のプレイヤーが建設した設備や設置したアイテムが自分の世界にも反映されても使うことができたりそれにいいねを 人とつながっている安心感があります。

例えばかなり険しい道を越えて目的地を目指して行くんですけど
「きついな!」って思った時に誰かが梯子を掛けてくれてたり
ポストにアイテムを残しておいてくれてたりしてなんとか越えられたっていう場面がありました。

断崖絶壁に他の人の足跡があったりして
「同じルートを通ったんだな」と見ず知らずの誰かと考え方が同じだと感じたり。

拠点を出るときに「ご安全に!頑張ってください!お疲れ様です!」
とメッセージがあって応援してくれたりするんですよ。
どこかに実在する誰かが看板を建ててくれる。

実際に遊んでいるのは一人なんですが、人とのつながりを感じるので
「自分は独りじゃない、誰かと繋がっているんだ」って思えるのがもうホント堪らなくイイ!

ゲーム自体はオンラインですが、プレイしていて誰かに荒らされたり
足を引っ張られたり、マウンティングもされない。
もちろん、コミュニケーションに疲れることもないです。

攻略法や遊び方に正解がないので、誰に制約されることもなく
自分のペースで自分の好きなように、のびのびと遊べるので
ストレスフリーに楽しめる。
つまるところ、オンラインゲーム特有のしがらみは全く感じなかったです。

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善行の循環だけが巡り巡るストランドシステム。

何と言ってもこれが「DEATH STRANDING」の核心でしょう。

最初は物語を進めるのに必死だったんですが
途中からただ国道を拡げると言う「誰かの為」にシフトしてしまったんですが
ストーリー上の『分断されたアメリカを繋ぎ直す』と言う「使命感」に駆られるわけです。

オレが!アメリカを!繋ぐ!
国道王にオレはなるッ!…ドンッ!!!

この行為こそが自分の為であり、誰かの為であると思うと胸が熱くなりますよね?

国道を引きまくっても全てのプレイヤーに反映される訳ではないのですが、そうだとしても、素敵だと思いません?

最初は必死にやっていた初心者配達人が後の国道王、悪くない響きです。

国道だけでなく梯子や充電スポット、ジップライン。
建設できるオブジェクトは様々でどれもこれも「誰かの為」。

初心者に優しいって素晴らしい。

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ストーリーはまるで長編映画!

ストーリーはみんな同じものを見ているので
遊んだ人同士で「あのシーンが感動した!」と同じものを観て「繋がる喜び」を体験できます。
例えばMGS3のザ・ボスの真実やFF7のエアリス離脱など
「プレイした者同士のコミュニケーションツール」になるのが
なんとも懐かしく感じました。

「小島作品は映画」と比喩されますが、ゲームと言うプレイ体験で「ストーリー」を完成させるのが
映画とゲームの大きな違いで、映画には全く真似できないことだと思います。

少し脱線しましたがストーリーに引き込む力が凄すぎて
止め時を何度も失いました。

ストーリーは謎が謎を呼んで次々と衝撃の事実が明かされるシナリオが絶妙!
前回の記事で「小島秀夫の手の中で転がされている」と表現しましたが
まさにその通りで、緩急自在でもう涙腺まで操ってんのか!

エンディングに向けての最後数時間は感動の連続で
これでもかってぐらい心揺さぶるシーンでたたみかけてくる!

最後の方は感動しすぎて思わず泣いてしまいました。
MGS3のザ・ボスの衝撃と同じぐらい、それ以上に泣いた!

人それぞれ性別や国籍、立場や環境が違うので感情移入できるキャラクターだったり
心に刺さるシーンっていうのはそれぞれ違うと思うんですけど、
「DEATH STRANDING」は個性豊かな登場人物それぞれにスポットライトを当てて物語が進んでいくので多くの人がどこかで必ず強く心を揺さぶられるシーンがあると思います。

「DEATH STRANDING」はメッセージ性が強い作品だった!

 BTの姿は恐ろしくもありながらどこか悲しくもあり美しくもあり、
逆さまの虹、カイラルアレルギーで流れる涙。

それぞれに意味やメッセージが込められていたりして終始考えさせられました。

小島監督の上のツイートのアイコンの意味について、エンディングを迎え
その真相にたどり着くことがようやく出来たように思います。

なぜ掌は「縄」で拳は「棒」なのか?

個人的な見解、解釈なのですが
縄は複数の糸の集合体で指を糸と考えると、それを他人の掌と絡ませると「繋がり」が生まれますよね。
逆に握り込み拳にすると腕から指先までが一本の棒になる。

棒同士を繋がり合わせるには接着剤のような強力かつ外的な力が必要です。
縄のように強固に絡み合った「繋がり」に比べると必ず何かしらの綻びが生まれる。

といったところでしょうか?

今の社会性を見ても何となく見て取れるように思いますよね。

無償の愛の循環こそ「DEATH STRANDING」

ゲームに思想をぶっこむのは宗教的だ!
とか自己満足だって批判の声もありますが
そう思うならゲームなんて一切やらない方がいいです。

作り手の発信したいメッセージが「ゲーム」として体現しているし
確実に「DEATH STRANDING」はゲームとしての新しい可能性を見出したように思います。

小島監督がインタビュー記事で「無償の愛を届けたかった」と語っていましたが
ストランドシステムで
まず最初は誰かの助けを得ながら自分の世界を見ていくことに集中する。

自分の世界を満たす行為が結果的に誰かの支えになっていて、
そのうち自分の中で余裕が出てきたら意図的に誰かの為になることをする。

また別の誰かが必要してその人の世界を満たしていくっていうまさに無償の愛の循環。

参考記事:「DEATH STRANDING」発売直後の小島秀夫監督インタビュー“いいねで繋がる無償の愛を届けたかった”

ここまで深読みするのも自分自身どうかと思いますが
実際ゲームでシュミレーションできちゃうんですよね。

無償の愛は見返りを求めないとか言われますけど、
それは見返りを求めずに自己犠牲で消耗することではなく
自分が満たされ溢れた分を誰かに与えるから
見返りを求めないっていうことなんだと解釈しています。

多分、単純に作品として大ヒットして儲かるもん作ろうぜ!
っていう目的で生まれてないんじゃないでしょうか。
でなければ「荷物を運ぶ」ってゲームにはならないはず…。

世界を、未来を変えたる!と言う熱意で
DEATH STRANDINGを作ってたんじゃないかなと感じました。

「こんな荷物運ぶゲーム、楽しいんかな?」なんて最初は思いましたが
実は主人公サム・ポーター・ブリッジズの肩に乗っていたのは「荷物」ではなく「人生」なんだと。

何とも持ち上げまくった感じになりましたが
「DEATH STRANDING」は自分にどこか余裕がないと感じる人、サムのように孤独だと感じている人には是非ともプレイしてほしいです。

きっと誰かと繋がれて誰かに優しくできるような気がします。

それでは。

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